すみながし

引っ越しを控えているのに本棚は減らせないまま増える一方

時が解けて新しく紡がれる―清川あさみ・最果タヒ『千年後の百人一首』

レモンサワーとブランケット

 最果タヒの詩を読むといつでも、夜、外にいてレモンサワーを飲んでいる気分になる。

 

 星は小さくまたたいて、やさしい風が顔に向かって吹いてきて、ほんのりと柑橘の香りが漂う中、喉に炭酸が弾けて、ヒリヒリとアルコールが流れて、詩に現れる気持ちを知っていたのにどこかに置いてきてしまって、でももう夜だからそれがどこだかわからないし、それをかつて知っていた頃の私はまだアルコールなど口にしたことのなかった頃の私で、いつの間にかあのような気持ちを感じられる年齢は過ぎ去っていたのかな、それとも今、見ないようにして体の奥に流し込んでいるのかな、あるいはこれから風に乗って流れてくるのかなと、体ごと泡だつ感じを掻き立てられる。 

 

 清川あさみの作品で一番印象的なのは「美女採集」で、流行通信』の特集号は今でも忘れられない。

 

 美女採集に登場する女優達は、うっかり見つけられてしまって縫い留められた動植物の精のようにも見えるし、クローゼットにあるとっておきの衣装、何かの役のためではなく、ただ、一番似合うというだけの一着をまとっているようにも見える。

 彼女の作品は美しさを縫いとめているのだか、美しさの糸を引き出しているのだか、私にはどちらだかわからないけれど、布と糸とビーズに映し出された世界はいつまでも眺めていたいし、彼女の作品が手元にある大きな織物だとしたら、ブランケットにして美しい夢を見ていたいと思う。 

 

 そんな鮮烈な印象を与え続けてくれる二人が百人一首を翻訳したという。

 

千年後の百人一首

千年後の百人一首

 
 羊羹を切り分けるとその中は

 百人一首といえば、それはもう言うまでもなく、優れた歌と選者の時を超える慧眼と百というパッケージによって生き続けるすごいコンテンツで、私の中ではすごいが故に、硬目の羊羹のように四角四面に凝り固まっている。

 ここに使われている古語はこういう意味で、この掛詞は何を表してというある種の決まったような解釈が高校の古典の授業の定番と化して、教材に印刷された歌と解釈にはあまり魅力が感じられなかった。

 あるいは、競技かるたの札として覚えるとそれは、一字決まりだったり、「あ」で始まる16枚の内の一つだったり、情感は二の次というか、気にしていられないスピード感が要求される。 

 

 それが、ね。この本、開いてみたらそんな凝り固まりはどこ吹く風で、羊羹を切ったら中はキラキラとした世界が入っていたみたいに、昔の歌が、ほどけていって、新しく紡がれている。表面からは見えなかった思いが新しい言葉と布に表れて輝いている。

 三十一文字に、かるたの札に収まって伝えられてきた思いが、二人を通して、現代の言葉にすくい取られて、布と糸の艶めきになって自由にしている。 

 

時は解けて新しく紡がれる

 例えば、小野小町の歌。「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」

 

 花の色は、「桜の花の色」と「容色」を表すというのが決まった解説で、絶世の美女と名高い小野小町が年をとったことを掛詞を駆使してしみじみしているというような訳が定番だが、最果の訳は次のように始まる。

「桜色だったはずなのに、花びらにぴたぴたと透明の雨が落ちてははじいて次第に色あせていくのを見つめているわたしの瞳。わたしの体にも、聞こえないほどの小さなはじく音が繰り返し鳴りひびいている。(後略)」

 清川の訳にも、老けてしまったという定番の解釈ではなく、時の流れに埋もれた一人の人物を感じる。

 大昔の歌が、水気と透徹な瞳を持ってこちらに近づいてくる。 

 

 縫いとめられた歌は、こんな色の、こんな景色を見ていたのかと感じるのが楽しいし、自分の勝手な、おとなしい解釈を塗り替えてくれるのが嬉しい。

 

 はっとしたのは、「みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ」。なんとなく雅やかな和歌のリズムに騙されて、訳を読むまで力強い歌だと知らなかった。柔らかだけれど確かな運針がこちらに迫ってくる。訳文を読んで、その感覚をもう一度覚える。

 

 「有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし」はセンチメンタルな冷ややかな朝を感じていたら、真紅のレース刺繍から成る画を突きつけられて、歌の表面では取り繕われて出てこない熱い官能の記憶かなとどきどきさせられる。

 

 巻末に、歌に関する短い解説が付いているのだが、訳を読み、解説を読んで、また訳のページに戻るのも楽しい。 

 

 新しい訳は、言葉を重ねて感情を喚起する。

 

 「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」

 教室でこの歌に目を通している高校生こそ、身近にひりひりと感じているだろう集団に対するこのやるせなさには「私は私の気持ちすら、もう抱きしめることができないでいる。」との言が添えられる。

 

 「逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし」の訳は、「感情すべてがただの痛みとなる前に、どうかぼくの前から消えてくれ」と結ばれる。ああ、知っていた、この思いは千年の時を超えても私たちの前に顔を出す。

 言葉がそっと私たちに手を添えて、歌人たちの方へ優しく近づけてくれる。 

 

 二つの空

 「夜半の月かな」で終わる二首、清川はどちらも直接的な月を描いていない。

 「めぐり逢て見しやそれともわかぬ間に雲がくれにし夜半の月かな」

 「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」

 前者は「あの子」の姿が、昼も夜もない幻のような中で滲んでいる。最果も「あの子」を中心とした訳になり、二人の訳は重なり響き合っている。

 一方、後者では、一人で宇宙の遠い道のりを歩く姿の画に対し、訳文は「もう死んでしまいたいほどに月がきれいだ」で始まる。二人の解釈は近かったり、少し遠かったりで、一つの地平から、二つの空を楽しめる。 

 

 男だ女だということは溶けていく。男も女もだ。みんな、似たような寂しさを持って、みんな、自分だけの方法で寂しさに形を与えている。

 千年。千年の時を超えて、新しい姿で変わらない感情に触れる。今の時代に、この訳を出してくれてありがとう。

 私は自分の空の下、この本を片手にほろ酔いの夢を見よう。