120年、変わったことはなんだろうか―シャルル・ヴァグネル『簡素な生活』
近頃流行りのシンプルライフ本ですか?―いいえ、1895年に刊行された本です。
新訳(『簡素な生き方』)が出ているが、旧訳の方を手に取る機会があったので、紹介するのは講談社学芸文庫版。
フランスの牧師だったヴァグネルの書いたこの本は、彼の生きた時代に警鐘を鳴らし、簡素を謳う。
彼の言う「簡素な生活」は「安あがりの生活」や「厳格主義の生活」ではない。美や詩的なものは大切にしている。
愚かな消費や富の利己的利用はダメだと言う。ミニマリズム最高というわけではない。
「生活」というよりも新訳のタイトルにある「生き方」の方が、内容に近い。
21世紀になって2回も翻訳書が出版されていること、それはこの本が今の時代にも十分通用するどころか、120年前の警告が今も通用してしまうと訴えたい人がいるのだと思う。
(p.32)
かんじんなことは、変化した状況の只中にあっても、人間が人間としてとどまり、その生活を生き、その目的に向って歩くということです。
(p.35)
簡素とは一つの精神状態です。それはわれわれを活気づける中心の意図に在るのです。ある人の最高の心がかりが自分のあるべきものであろうとすることに存している時には、すなわちただ単に人間であろうとすることに存している時には、その人は簡素なのです。
彼は人生を愛する。われわれが厭世主義に屈服せずに生きて、人を信じているのは、希望や善良さというものがあるからという。そして、希望や善良の信条の元、ありとあらゆる複雑になってしまったことに言及する。
今の時代までも見通しているのではないかとぎくりとするような一節に次々と出会う。
未来のことを言っていたのではない。でも、今も変わっていない
例えばそれは、言葉。
ヴァグネルは「正しく考え、率直に語る」ことを良しとする。
(p.66)
相手に勝つことばかりに熱中したり、尊重すべきものは自分の利害だけだとうぬぼれたりしているすべての人々にとっては、自分たちの尊敬する言葉というものはもはやありません。そういう連中の受ける罰は、自分自身が従っている規則、すなわち「本当のことではなく、利益になることをいう」という規則によって、他人を判断するのを余儀なきに至ることです。
利益を優先し、言葉や内容をないがしろにする。どこかで聞いたことのある話だ。
(p.149)
現代の主な児戯の一つは売名を好むということです。名をあらわし、世に知られ、無名の境を出ること−−ある種の人々はこう言った欲望の虜になっているので、まさに自己宣伝をしたさにむずむずしているといってもいいほどです。
今の時代から見れば、この本が書かれた頃は「近代」に当たるけれど、「現代」的と思われることが多々有る。
特に、以下の指摘は、最近、世界中で言われていることではないだろうか?
(p.241)
社会のどんな階級においても、見られるのは自分の権利を要求する人々ばかりです。われわれはみんな債権者をもって任じており、自ら債務者であると認める者は誰一人ありません。
(p.242)
われわれを互いに隔てるものはわれわれの記憶の中にたくさん残っているのに、われわれを結びつけるものはわれわれの記憶から消えていきます。
われわれは、一向に進歩していないのか、それとも、一度は前進したものの、退歩を始めたのだろうか?
他にも、「インターネットってそんな昔からありましたっけ?」と思わず言いたくなったり、「快楽や恋愛や奇蹟や祖国愛で儲けてる人?今もいるいる!」とうなずきたくなる文がたくさん出てくる。
長時間労働を是とする仕組みを作りたがる人たちに聞かせたいのが以下の言葉。
(p.126)
箒は掃くためのものであるからには、疲れを覚えるなんてことはありえないと思われがちなのです。いつも下積みの仕事にたずさわっている人々の疲労をわれわれが見ることを妨げる、あの盲目的な態度を棄てなければなりません。
もちろん本書のすべてが今日の社会に通用するわけではない。特に軍事的なことと、女性に関する考え方は過去のものである。
それでも、見逃せないことが書かれているのだ。彼の憂慮は残念ながら今日にも通じてしまう。
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