すみながし

引っ越しを控えているのに本棚は減らせないまま増える一方

つるつるハートの子守唄–姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』

素通りできなかった

 

姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』を読んだ。東大生による強制わいせつ事件に着想を得た小説である。

 

彼女は頭が悪いから

彼女は頭が悪いから

 

 

 

この本を知ったのは、文藝春秋オンラインに掲載されていた書評で、出版社の紹介ページを覗いてみたら、こんな煽り文句に出くわした。

 

すべての東大関係者と、東大生や東大OBOGによって嫌な思いをした人々に。娘や息子を悲惨な事件から守りたいすべての保護者に。スクールカーストに苦しんだことがある人に。恋人ができなくて悩む女性と男性に。

文藝春秋BOOKSより)

 

心当たりが複数あるので、これは読んでおかなければと思ったが、読むのが怖いという気持ちもせめぎあって、買ったはいいが寝かせてあった。しかし、もう年末なので、今年買った本は今年の内にと思って読んだ。

 

タイトルからして強烈なのだが、嫌な気持ちや自分の中の偏見や優越感、劣等感を浮かび上がらせる歯垢染色液のような物語だった。

 

ひたすら曇天な物語

 

姫野カオルコといえば、過去のエピソードをものすごく巧みに構成していく作家、というのが私の中での印象だ。

今作も、被害者となる美咲、そして彼女が好意を寄せていた加害者のつばさを中心に、事件に至るまでの彼らの生い立ち、生活の描写が連なっていく。

 

郊外の普通の家庭で育った中学生の美咲の、のんびりとした「ごくふつうの女の子」の日常から物語は始まる。

彼女はやがて高校、大学へと進学し、周りの恋愛模様に翻弄されつつ日々を過ごしている。

 

都心の教育熱心な家庭で育ったつばさは、傍目から見るとストレスフルな日常を送っている。

他人のことはどうでもよく、小馬鹿にしている。そして、自分もあくまで「東大生」の肩書きで扱われているとの意識を強めていく。

彼の周りの男子学生たちも同様に高いプライドをもって、他人を馬鹿にしている。

 

作者は、若者の残酷な自意識を残酷に書く。

無自覚に無意識に浴びてきて、自分も吐き出していたかもしれない偏見に冷や汗が出る思いをする。

いずれ事件が起こることはわかっているのだが、どうか出会わないでほしいと思いながら読み進める。事件が起こるのは、物語の後半だ。

終盤、一筋だけ光明が差すが、ひたすら救いのない話が続く。

 

よくまあこの嫌な物語を描ききったなと舌をまく。

やや大時代的な比喩も登場するものの、そこは姫野節といったところか。

 

つるつるハートの子守唄

 

この話の肝は、つばさの心の有り様を説明しているこの点ではないかと思う。

 

「ものごころついたときから今日まで、引け目というものをほとんど感じた経験がなく、心がぴかぴかしてつるつる」

 

ぴかぴかでつるつるのハートが、他人の気持ちを想像することができず、残酷さがエスカレートして、悲惨なことを招いた。

そしてこの残酷さを有するのは、何もつばさや共犯の東大生だけではない。

 

そんなにおれ(我が子)が悪いのか、と言わんばかりで、美咲の心情を慮ることのできない犯人と親達。インターネット上で被害者への誹謗中傷を書き込む人々。

ぴかぴかつるつるハートは、東大や若い男性だけの問題ではない。

では、この心の形を変えるにはどうすればいいのか。

 

その方法の一つは、本を読み、他人を知ることだと思う。

と言っても、作中人物の國枝が出版している『東大生が教えるムダのない24h』のような本では無い。

 

そんな効率性からは遠く離れた、一見ムダのような、読むのに時間がかかり、ぴかぴかつるつるハートとは離れたところにいるような人が出てくる本だ。そしてそれは文学の担うところだ。

 

「人文について考察したり思慮したりするような下級なことはしない」と今作の文中で皮肉めいて書かれているその「下級なこと」である。

 

物語を読んでいるからって偉いということは無いし、読んでいたって他人を傷つける人はいる。そもそも人に優しくするために読むものでもない。

 

ただ少し、少しだけ自分のハートを物語に差し出して、他人へのひっかかりをつくる。そのささやかな営みがもしかしたら、凄惨な事件を起こしてもなお輝くハートの形を変えてくれるかもしれない。そんな祈りである。

 

物語の最初の方のエピソードにこんな話が登場する。つばさが高校生の頃、彼に想いを寄せる女子が、北原白秋の詩を引用して、思わせぶりなメールを送りつけてくる。

平成生まれが北原白秋を使った遠回しな告白などしないだろうとツッコミたくなるが、最後まで読むと、あれは若者のまどろっこしい不器用な自意識と文学的情緒など全く解さない心の象徴だったのかなと思う。

(白秋だから「にくいあん畜生」って遠回しに言っているという解釈は流石に飛躍か。)

 

ぜひ読んで、と勧めたい本ではない。

読めば嫌な気分になること請け合いだ。

読み手が若ければ若いほどショックを受けるのではないかと思う。

それでも素通りできない何かを感じている人は、読むといい。

見て見ぬふりをしているあなたの一部が浮かび上がるから。

 

大きな鳥にさらわれたかのよう−川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』

生殖の未来の物語

 人口減社会に関する本を読んでいて(こちらのエントリ)、そういえば、未来を書いたSFって、技術の発展や思想統制の話はあっても、人口減って見かけないよねとふと思ったけれど、以下の記事を読んで、ただの思い込みにすぎないと知った。

 

ディストピア小説には、大きくわけてみっつの方向性があり、ひとつは『一九八四年』や『すばらしい新世界』系の、行き過ぎた全体主義・管理社会下にある人間の意識の変容を描き出すタイプ。ふたつめは、現在の現実世界であっても状況によっては成立してしまう、むきだしになった人間の暴力性を描くもの(後述の、ゴールディング『蠅の王』はそれにあたる)。そしてみっつめは、とりわけ人類の出産にまつわる問題を中心的主題に据えた、いわば女性と生殖の物語の系譜である。

 

江南亜美子「いまこそ読みたい、ディストピア小説8冊 」(i-D)

 

 そこで、記事で紹介されていた作品のうち、川上弘美『大きな鳥にさらわれないよう』を読んでみることにした。理由は、鳥が表題になっているというそれだけ。

 

大きな鳥にさらわれたかのよう

 

大きな鳥にさらわれないよう

大きな鳥にさらわれないよう

 

 

 本書には、14の連作短編が収められている。連作と言っても、前の話とつながりのあるものもあれば、関係がよくわからないものもある。最後まで読み進めていくと、全貌が分かる。

 それぞれの話は一人称で語られるもの、あるいは三人称で一人の人物に焦点を当てているものがほとんどで、「私的」という言葉がよく似合う。

 

 最初の「形見」では、人々は、動物由来の細胞を使って、工場生産されている。次の「水仙」では、「私」が「私」を迎えるところから始まる。三番目の「緑の庭」は、リエンという名の女の子の話。その次の「踊る子供」にもリエンは登場する。

 

 それぞれのエピソードは時代も場所も異なるらしいが、どうも人類は減少して、いくつものグループに分かれて暮らすようになっている。種の有り様も集団によってだいぶ異なるようである。「見守り」という役目の人々がいて、彼らは「母たち」に育てられている。この「母」は、生殖を行う女性とはまた違った存在のようであると少しずつ読み進めていくうちに、分かることもあれば、新たな謎も溜まっていく。

 

 管理され、生殖に重きを置いた社会において、どうしても現れる個性、踊る心、慈しむ相手、喪う悲しみ、争い、自分と異なるものへの恐れが描かれている。壮大な物語は、一人ひとりの人間の物語によって紡がれる。

 

 表題の「大きな鳥にさらわれないよう」は、表題作の登場人物による言葉である。大きな鳥が何なのか、この人物は示さないし、作中にはっきりと示されるわけではない。本作が神話的な物語であることをほのめかしているのかもしれない。ただ、私には、「大きな鳥にさらわれないよう」は読者に対しての言葉のように思えた。

 

 読者はこの本を開くと、大きな鳥に肩を掴まれ、一つ一つの小さな物語を鳥瞰するように旅をしていく。

 飛び飛びに一体何を見せられているのか、これは本当に未来の地球の話なのか、この話はどこへ行くのかと思うと、終盤、鳥は急に爪を立てて、ぞくっとくるエピソードを示す。これは、ありえるかもしれない未来なのだ。そして、最後の物語を見届けた読者は、世界を確かめようと鳥から離れ、もう一度、物語世界に落ちていく。

 これは、そういう形の物語ですよ、覚悟してくださいね、と表題が示唆していたような気がしたのだ。

 

 

そして想起されてしまう鳥とその系譜の物語

 『大きな鳥にさらわれないよう』を最後まで読んで、頭にちらついた鳥がいる。手塚治虫の「火の鳥」だ。『火の鳥 未来編』との共通点と差異が頭の中に浮かぶ。

 

火の鳥 2未来編 (角川文庫)

火の鳥 2未来編 (角川文庫)

 

 

 何がどう同じで違うかを書くとネタバレになるのだが、もしかして、これは川上弘美の「火の鳥」だったのかしらという気がする。ついでにいうと、色んな人生を見せられる構成は、「鳳凰編」の我王や茜丸みたいに、これがあなたがたの未来の姿、子孫の姿ですよ、と見せられているみたいだった。あくまでこじつけの個人の感想だけれど。

 

 『火の鳥 未来編』といえば、施川ユウキ『銀河の死なない子供たちへ』をまだ読んでいなかったなと思って、この機会に読んでみた。

 

 

 

 この作品は、作中に『火の鳥 未来編』(角川文庫版)を読んでいる描写があり、手塚治虫へのオマージュだと思われる。

 人間がいなくなった地球に生きる不老不死の母と二人の子供。生きている人間を探す子供らはある日、宇宙から落ちてきて、出産して息絶えた女性の娘、ミラを育てることになる。

 世界を広げて成長するミラと変わらない二人。二人は何をして、どこに行ったらいいのか。ミラを失った二人は、答えを出す。

 

 凄まじい話が、ほんわかとした絵柄で描かれる。上巻は日常的だが、下巻の展開に心を揺り動かされる。特に、二人の母とミラが対峙するシーンの迫力はすごい。施川作品は室内で展開する『バーナード嬢曰く。』しか読んでいないので、自然の、そして星空の描写に驚いた。(関係ないけれど、私のkindle端末のスリープ画面にいる望遠鏡を構えている女性の絵、この話のイメージとすごくよく合う。)

 

 そういえば、『大きな鳥にさらわれないよう』は、あくまで地表で展開する物語だった。『火の鳥』や『銀河の死なない子供たちへ』のように、宇宙は絡んでこない。川上作品の人類は、宇宙開発を諦めたというか、諦めざるを得ないほど衰退してしまったのかな

 

 さておき、スケールの壮大な話を読んで、勝手にあれこれ想像するのは楽しかった。これがささやかな生活を送る私のささやかな感想。

もっと読みたくなる−「早稲田文学増刊 女性号」

今と今に連なる作品を読む

 2017年の秋に発行された「早稲田文学増刊 女性号」をこの秋、少しずつ読み進めてきた。書き下ろしが大半で、再録作、翻訳作品も含めて小説、詩、俳句、短歌、エッセイ、評論と幅広いジャンルの「女性と表現」をテーマにした女性の書き手の作品が読める。意欲的なアンソロジーで、作品の掲載はないものの外せない作家については、後半の評論やブックガイドで捕捉されている。

 

早稲田文学増刊 女性号 (単行本)

早稲田文学増刊 女性号 (単行本)

 

 

 読んでいる間はまるで、展覧会に足を踏み入れたようだった。会期は気にせず、好きな時に好きなように鑑賞できて、好きなだけ作品に没頭できる。絵画や彫刻ではなく、印刷物だからそれは当たり前なのだけれども、一つ一つを渡り歩く感覚が楽しくて、川上未映子がキュレーションした「女性と表現」展に何度も足を運ぶ気分で読んでいった。

 

 知らなかった作家や作品、読んだことのある著者の書き下ろしに驚き、知っている作品との再会に喜び、たっぷりと表現の世界を堪能して思ったのは、今まさに活躍している作家の作品も楽しもうということ。

 

 私はもともと、話題の本はあまり手に取らず、どちらかといえば、見過ごしてきた本があるのでは、と思って過去の作品を読むことが多かったのだが、今の作品、今の表現、めちゃくちゃ面白いではないか、あの作家、この作家、もっと読んでみたい!と興味を惹かれることの連続だった。

 

 過去の作品に目の向きがちな自分に、今の作品も楽しいよ、あなたは今の作品も十分に楽しめるよ、と背中を押してもらって私はこの分厚い会場を後にした。そして最近は、少し意識的に、ここ何年かに出た小説を手に取って、「今」にとどまらない世界に浸っている。

 

気になった作品

 特に何か言いたくなった作品について一言二言。7割くらいは既にtwitterでつぶやいたことだけれど流れてしまうのでここに再録して書き足し。

 全体の目次は早稲田文学のページに掲載あり。

 

エドナ・セント・ヴィンセント・ミレー(小澤英実=訳)

 私に作曲と演奏と歌唱の才能があったら、ミレーの詩に曲をつけてピアノで弾いて唄いたい。残念ながらどの才も無いのだが、鍵盤の和音の音がぴったりだと思った。

 翻訳がリズムを呼び起こしてくれたのだと思う。「人類への呼びかけ」を読んでいたら、なぜかコムアイ水曜日のカンパネラ)の声で脳内再生された。

  

■ルシア・ベルリン「掃除婦のための手引き書」(岸本佐知子=訳・解説) 

 ハードボイルドな作品。

 解説で触れられていた5パラグラフ作品の画像を見かけて読んでみたら、”like in Mishima where it takes three pages to take off the lady's kimono"って喩えが出てきて笑った。1ページ作品にこの文を入れるセンス!

 

佐藤文香「神戸市西区学園東町」

 幼少期の名前の呼ばれ方を題材に選ぶセンスが良い。「FEEL YOUNG」あたりの漫画と同じような匂いがする。

 他の俳句作品の人選もこの方が手がけたのかなと思った。

 

■イーユン・リー「かくまわれた女」(篠森ゆりこ=訳)

 根無し草のベビーシッターの話。赤ちゃんと赤ん坊の二通りの表記、元の語はbabyとinfantなのかな。赤ちゃんの性別が書かれていないのが興味深い。

 ルシア・ベルリンやジーン・リース樋口一葉の作品など、再録作品は、居場所の定まっていない主人公の話が多い気がする。 

 

■左川ちか

  詩人。旧仮名遣いで書く若い人かと思ったら80年ほど前の若い人だった。

 「海の花嫁」の中の「悪い神様にうとまれながら」の一節にぐっときた。自分の中で勝手にファンタジーが沸き上がってくる。

 

■イ・ラン「韓国大衆音楽賞 トロフィー直売女」(Ko Younghwa=訳) 

 韓国の女性アーティストが経験した炎上についてのエッセイ。かっこいい人である。この人に原稿を依頼した人もかっこいい。

 

堀越英美「女の子が文学部に入るべきでない5つの理由」

  笑った。中学3年生の頃の自分に読ませたい。この文章を笑った上で人文系に進学しよう。

 著者の『女の子は本当にピンクが好きなのか』も併せて、女子のキャリアを考える上での必読文献。

 

■永瀬清子

 掲載作のうち、「そよ風のふく日に」では、産後の日々をこう表している。

"働ける日の幸福を待ちながら

しばらく憩ふ時間のきれいな水たまり"

 澄んだ水で顔を洗ったみたいに気持ちが引き締まる。

 少し自分の好みとは違う詩人だと思っていたが、自分が育児に翻弄されている今、この人の言葉が必要なのかもしれない。

 

川口晴美「世界が魔女の森になるまで」

 あ、これ、読みたかったものだ。と作者も作品のことも知らなかったけれど思った。この作品を読んでいる時、私は森にいる。

 実は自分がこのような作品を求めていたと思えるのはアンソロジーの醍醐味。

 

■古谷田奈月「無限の玄」 

 死んでもまた現れる父親を巡る家族の話。女性不在の中、家族、生活、故郷、生への執着などが描かれる。

 この物語はどこに辿り着くのか、どこに連れて行かれるのか、まるで月夜に迷子になったよう。最後のシーンがこびり付く。

 一読した後なぜか「こいつらこの地にしか生えない茸の化身か何かか」という謎の感想が浮かんだ。多分、月夜野という地名のせい。

 

ヴァージニア・ウルフ「ロンドン散策–ある冒険」(片山亜紀=訳・解説) 

 自分が「わたしたち」の一人として、ウルフの同伴者になったつもりで読むとすごく楽しい。気持ちや考えが溢れてしょうがない物書きの友人と1920年代のロンドンを歩く錯覚に陥る。 

 ウルフはこれまで読んだことなかったけれど、読もう。今の私はけっこう切実に「自分ひとりの部屋」の必要性を感じている。子育てが終わるまで無理そうなのだけれど。

 

村田沙耶香「満潮」

 これが私の初めて触れる村田作品だったのだが、この作者は、いったい幾つの世界に辿り着いているのだろうかとため息をついて、『殺人出産』を読んでまたため息。読み進めたい作家。次は『コンビニ人間』だ。

 

■盛可以「経験を欠いた世界」(河村昌子=訳・解説)

 女のあわよくばと思う内面と動悸を書く。唐突に安野モヨコハッピーマニア』を思い出した。エネルギーの渦巻いている感じが好き。

 

■今村夏子「せとのママの誕生日」

 ブラックな笑いをもたらすヘンテコな作品。どうして今まで今村夏子を手に取らなかったんだろうと後悔した。

 

■チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ「イジェアウェレへあるいは十五の提案に込めたフェミニストマニフェスト」(くぼたのぞみ=訳)

 ”フェミニストとして前提にしなければいけないのは、自分は対等に大切なんだということ”

 女児を産んだ友人への手紙。これ、翻訳の単行本出たらいいギフトになるだろうなぁ。

 若い母親に向けたアドバイスって、日本だと西原理恵子が筆頭で、波乱万丈を生き抜いてきた西原節も面白いのだけれど、こういうしなやかなに女性の成長をエンパワメントする文章にも側にいてほしい。

 

 さあ、次は何を読もうかな。

少子化に対するイメージを棚卸しする−内田樹編『人口減少社会の未来学』

気になってしょうがない

 

子どもが生まれてからというもの、未来について書かれた本が気になってしょうがない。

まず、昨年刊行されて話題になった、河合雅司『未来の年表』とその続編『未来の年表 2』を読んだ。

 

 

 

 

 

人口予測に基づいて書かれているので、本書の指摘は、ある程度、現実のことになるだろう。

少子高齢化によって引き起こされること、すでに問題となっている空き家の増加、人手不足はもちろんのこと、手入れが行き届かないために虫害や災害が発生するなどのメンテナンスの問題も触れられている。

また、30年後には世界的な人口増を受けての食糧不足などが予想されている。

 

この2冊を読んで、インフラのメンテナンスとは向き合わなければならないし、食扶持の確保は、金銭面でも食糧面でもどうにかしなければならないと感じた。

ただ、技術の進歩や社会システムの変化の予測は難しいとはいえ、今の時代を前提として書かれているので、その点は物足りなくも思った。

もっと、いろんな人の見解を知りたくなったので、今度は内田樹編『人口減少社会の未来学』を手に取った。

 

人口減少社会の未来学

人口減少社会の未来学

 

 

 

今のシステムは続かない

 

本書は編者を含む11名が人口減少社会に対するそれぞれの見通しを書いている。

タイトルと著者は以下の通り。

 

・序論 文明史的スケールの問題を前にした未来予測 内田樹

 

ホモ・サピエンス史から考える人口動態と種の生存戦略 池田清彦

 

・頭脳資本主義の到来―AI時代における少子化よりも深刻な問題 井上智

 

・日本の人口減少の実相と、その先の希望シンプルな統計数字により、「空気」の支配を脱する 藻谷浩介

 

・人口減少がもたらすモラル大転換の時代 平川克美

 

・縮小社会は楽しくなんかない ブレイディみかこ

 

・武士よさらばあったかくてぐちゃぐちゃと、街をイジル 隈 研吾

 

若い女性に好まれない自治体は滅びる「文化による社会包摂」のすすめ 平田オリザ

 

・都市と地方をかきまぜ、「関係人口」を創出する 高橋博

 

少子化をめぐる世論の背景にある「経営者目線」 小田嶋 隆

 

・「斜陽の日本」の賢い安全保障のビジョン 姜尚中

 

各人の分野や見通しのスケールはそれぞれだが、共通しているのは、今のままのシステムや考え方は通用しないということ。

特に面白かったのは、藻谷、平川、ブレイディの各氏。

また、自らの取り組みを交えて未来を考えた隈、平田、高橋の各氏の論も興味深い。

 

藻谷浩介は、少子化に対する思い込みを解きほぐす。

高齢化が深刻なのは地方よりも都会の方であり、地方の少子化も都会への流出が主原因ではないと統計を基に述べる。出生率の上昇には、生活環境の是正が必要だと訴え、地方での子育てに活路を見出している。

都会で仕事にありついている身からしてみれば、地方で子育てするということは、仕事をあきらめるということか?地縁の無い人間はどうする?と次々と心配になってくるが、そのあたりは平田オリザが丁寧にカバーしている。

 

平川克美は、損得勘定で人口減少を捉えることが問題であると指摘する。

現在の状況は市場化のモラルによってもたらされたものであり、そのモラルを変えることが、人口減少への歯止め、あるいは定常化した社会へのソフトランディングの鍵となると述べる。そして、そのヒントは無償贈与、有縁共同体、社会共通資本の再生にあると結ぶ。

 

ブレイディみかこは、下り坂をあえて上ると言う。

緊縮財政が欧州に及ぼしている負の影響を例示し、一国の財政を家計感覚で考えるのは間違っていると指摘する。若い世代が萎縮することのないように、未来のために積極的に投資を行うべきと主張する。

デフレと緊縮財政がナチスを生んだという話には、ひやりとするものがあった。

 

 

少子化に対する思い込みに気づかされる

 

書き手は何故か一人を除いて男性だが、少子化は女性のせいではないという指摘が散見されたのが嬉しい。

 

・女性が産まないのではなく、男性が結婚せず、子育てにも協力しないからこその少子化(藻谷)

・女性が子どもを産まなくなっているというのは、嘘である。(平川)

 

この先がどうなっていくか、誰もはっきりとはわからない。

人口減少社会の訪れは、数十年前から既に始まっていたことではあるけれど、議論はまだまだこれからなのだろう。

本書もいろんな意見が一冊になっていて、個人が具体的に何をすればいいということが書かれているわけではない。

ただ、少子化は悪いことで、女性のせいでそうなって、どうしようもないから支出は減らします、という世間のイメージに、そうだよね、仕方ないよねとなんとなく追随していたら、ぜひ読んでほしい。

また入院に持っていくなら―茨木のり子『詩のこころを読む』

入院のカバンに入れる本

私の初めての出産は、決められた日に入院しての誘発分娩だった。

経験もなく、忙しいのか、暇なのかよくわからないので、とりあえず本を一冊持って行くことにした。

そこで、入院に持って行くのにうってつけの本とは何かを考えた。

 

kindle端末は紛失が怖いから、紙の本がいい

・もし紛失しても新品を買い直せるような、ロングセラーか近刊だと心配が少ない

・場所をとらず、手が疲れないように、文庫か新書サイズが望ましい

・長丁場になる可能性があるので、あまり簡単に読み終わってしまうものは困る(実際長かった)

・気軽に読めるもの

・途中で読む手を止めても困らないもの

 

自分の小さな本棚でこの条件を満たすものは、たった一冊で、それは茨木のり子『詩のこころを読む』だった。

 

詩のこころを読む (岩波ジュニア新書)

詩のこころを読む (岩波ジュニア新書)

 

 

詩人の茨木のり子が、自分の好きな詩について解説している本で、素敵な詩を読めて、さらに詩人による詩の読み方に触れられる。

若い人に向けて書かれているため、言葉遣いも平易で、疲れた大人にもやさしい。

 

ベッドの上で読み返す

この本のことは大学一年生の四月に同級生に教えてもらった。

読み終えてから、著者の詩集『おんなのことば』を買いに行った。

背筋の伸びる思いがした。

 

おんなのことば (童話屋の詩文庫)

おんなのことば (童話屋の詩文庫)

 

 

その後、就職してから読み返した。

このときは、大きな図書館に滝口雅子の詩集を探しに行った。

自分も鋭い目を持った大人の女になりたいと思っていた。

 

滝口雅子詩集 (1984年) (日本現代詩文庫〈13〉)

滝口雅子詩集 (1984年) (日本現代詩文庫〈13〉)

 

 

そして今度は、点滴や胎動を計測する機械に繋がれて、病院のベッドの上で開いた。

久々に読むもので、すっかり内容を忘れてしまっていたが、目次をめくって驚いた。

紹介されている詩は、「誕生から死」の順に並べられていた。

 

これから我が子が生まれてくる。

そして、自分は、そしてこの子も、万が一の場合は死ぬかもしれない、そんな時に人の一生を追うような本を読む。

恐る恐るページをめくる。

人を生み出すことへの慄き、いずれこの子も何かや誰かに夢中になるだろうこと、自分は先にこの世から去るだろうことなど様々なことに思いを馳せる。

 

カーテンで仕切られた大部屋のベッドの上、短い詩と鑑賞文を読んでいるだけで、様々な気持ちが去来して、静かに泣いてしまった。

 

無事に産んで、手渡したい

以前とは違う詩が目に止まった。

一つは、ジャック・プレヴェールの「祭」(小笠原豊樹 訳)

 

 おふくろの水があふれるなかで

 ぼくは冬に生れた

 

と始まる、おおらかに自分の出生を歌うこの詩に、すっかり惹きこまれてしまった。

無事に産んで、退院したらこの詩人の本を買いに行って、我が子が独り立ちする時が来たら渡そうと思った。

(荷物が増えるといわれるかもしれないが)

 

もう一つは、「食わずには生きてゆけない。」で始まる石垣りんの「くらし」。

石垣りんの詩は他にも2つ紹介されていて、著者の解説を読んで、すべての働く女性に突き刺さる作品ではないかと思った。

職場に復帰する前に、改めて読みたいと思った。

 

結局、出産に至ったのは、入院してから三日後で、本は最後まで読み通すことができた。

産後は出血多量でかなり消耗していたが、少しずつ回復していった。

一人で出かけられるようになってから、プレヴェールの詩集を買い求めた。

 

 

もしまた出産の機会があったら、この『詩のこころを読む』を病院に持って行こう。

そして人生に思いを馳せながら、新しい命を迎えたい。

そのときはまた、違う詩を気に入るかもしれない。

 

産前や入院時に読む本を探している人がいたら、この本に限らず、書評集や好きなものについて熱く語った本など「無事に退院して、これを楽しもう」と思える本をおすすめしたい。

そして、無事に戻ってきて、新しい本を手にしてほしい。

120年、変わったことはなんだろうか―シャルル・ヴァグネル『簡素な生活』

近頃流行りのシンプルライフ本ですか?―いいえ、1895年に刊行された本です。

 新訳(『簡素な生き方』)が出ているが、旧訳の方を手に取る機会があったので、紹介するのは講談社学芸文庫版。 

簡素な生活 (講談社学術文庫)

簡素な生活 (講談社学術文庫)

 

 

 フランスの牧師だったヴァグネルの書いたこの本は、彼の生きた時代に警鐘を鳴らし、簡素を謳う。

彼の言う「簡素な生活」は「安あがりの生活」や「厳格主義の生活」ではない。美や詩的なものは大切にしている。

愚かな消費や富の利己的利用はダメだと言う。ミニマリズム最高というわけではない。

「生活」というよりも新訳のタイトルにある「生き方」の方が、内容に近い。

 

 21世紀になって2回も翻訳書が出版されていること、それはこの本が今の時代にも十分通用するどころか、120年前の警告が今も通用してしまうと訴えたい人がいるのだと思う。

 

(p.32)

かんじんなことは、変化した状況の只中にあっても、人間が人間としてとどまり、その生活を生き、その目的に向って歩くということです。

 

(p.35)

簡素とは一つの精神状態です。それはわれわれを活気づける中心の意図に在るのです。ある人の最高の心がかりが自分のあるべきものであろうとすることに存している時には、すなわちただ単に人間であろうとすることに存している時には、その人は簡素なのです。

 

 彼は人生を愛する。われわれが厭世主義に屈服せずに生きて、人を信じているのは、希望や善良さというものがあるからという。そして、希望や善良の信条の元、ありとあらゆる複雑になってしまったことに言及する。

 今の時代までも見通しているのではないかとぎくりとするような一節に次々と出会う。

 

未来のことを言っていたのではない。でも、今も変わっていない

 例えばそれは、言葉。

 ヴァグネルは「正しく考え、率直に語る」ことを良しとする。

 

(p.66)

相手に勝つことばかりに熱中したり、尊重すべきものは自分の利害だけだとうぬぼれたりしているすべての人々にとっては、自分たちの尊敬する言葉というものはもはやありません。そういう連中の受ける罰は、自分自身が従っている規則、すなわち「本当のことではなく、利益になることをいう」という規則によって、他人を判断するのを余儀なきに至ることです。

 

利益を優先し、言葉や内容をないがしろにする。どこかで聞いたことのある話だ。

 

(p.149)

現代の主な児戯の一つは売名を好むということです。名をあらわし、世に知られ、無名の境を出ること−−ある種の人々はこう言った欲望の虜になっているので、まさに自己宣伝をしたさにむずむずしているといってもいいほどです。

 

 今の時代から見れば、この本が書かれた頃は「近代」に当たるけれど、「現代」的と思われることが多々有る。

 特に、以下の指摘は、最近、世界中で言われていることではないだろうか?

 

(p.241)

社会のどんな階級においても、見られるのは自分の権利を要求する人々ばかりです。われわれはみんな債権者をもって任じており、自ら債務者であると認める者は誰一人ありません。

 

(p.242)

われわれを互いに隔てるものはわれわれの記憶の中にたくさん残っているのに、われわれを結びつけるものはわれわれの記憶から消えていきます。

 

 われわれは、一向に進歩していないのか、それとも、一度は前進したものの、退歩を始めたのだろうか?

 

 他にも、「インターネットってそんな昔からありましたっけ?」と思わず言いたくなったり、「快楽や恋愛や奇蹟や祖国愛で儲けてる人?今もいるいる!」とうなずきたくなる文がたくさん出てくる。

 

 長時間労働を是とする仕組みを作りたがる人たちに聞かせたいのが以下の言葉。

 

(p.126)

箒は掃くためのものであるからには、疲れを覚えるなんてことはありえないと思われがちなのです。いつも下積みの仕事にたずさわっている人々の疲労をわれわれが見ることを妨げる、あの盲目的な態度を棄てなければなりません。

 

 

 もちろん本書のすべてが今日の社会に通用するわけではない。特に軍事的なことと、女性に関する考え方は過去のものである。

 それでも、見逃せないことが書かれているのだ。彼の憂慮は残念ながら今日にも通じてしまう。

 

 ▼新訳はこちら

簡素な生き方

簡素な生き方

 

 

時が解けて新しく紡がれる―清川あさみ・最果タヒ『千年後の百人一首』

レモンサワーとブランケット

 最果タヒの詩を読むといつでも、夜、外にいてレモンサワーを飲んでいる気分になる。

 

 星は小さくまたたいて、やさしい風が顔に向かって吹いてきて、ほんのりと柑橘の香りが漂う中、喉に炭酸が弾けて、ヒリヒリとアルコールが流れて、詩に現れる気持ちを知っていたのにどこかに置いてきてしまって、でももう夜だからそれがどこだかわからないし、それをかつて知っていた頃の私はまだアルコールなど口にしたことのなかった頃の私で、いつの間にかあのような気持ちを感じられる年齢は過ぎ去っていたのかな、それとも今、見ないようにして体の奥に流し込んでいるのかな、あるいはこれから風に乗って流れてくるのかなと、体ごと泡だつ感じを掻き立てられる。 

 

 清川あさみの作品で一番印象的なのは「美女採集」で、流行通信』の特集号は今でも忘れられない。

 

 美女採集に登場する女優達は、うっかり見つけられてしまって縫い留められた動植物の精のようにも見えるし、クローゼットにあるとっておきの衣装、何かの役のためではなく、ただ、一番似合うというだけの一着をまとっているようにも見える。

 彼女の作品は美しさを縫いとめているのだか、美しさの糸を引き出しているのだか、私にはどちらだかわからないけれど、布と糸とビーズに映し出された世界はいつまでも眺めていたいし、彼女の作品が手元にある大きな織物だとしたら、ブランケットにして美しい夢を見ていたいと思う。 

 

 そんな鮮烈な印象を与え続けてくれる二人が百人一首を翻訳したという。

 

千年後の百人一首

千年後の百人一首

 
 羊羹を切り分けるとその中は

 百人一首といえば、それはもう言うまでもなく、優れた歌と選者の時を超える慧眼と百というパッケージによって生き続けるすごいコンテンツで、私の中ではすごいが故に、硬目の羊羹のように四角四面に凝り固まっている。

 ここに使われている古語はこういう意味で、この掛詞は何を表してというある種の決まったような解釈が高校の古典の授業の定番と化して、教材に印刷された歌と解釈にはあまり魅力が感じられなかった。

 あるいは、競技かるたの札として覚えるとそれは、一字決まりだったり、「あ」で始まる16枚の内の一つだったり、情感は二の次というか、気にしていられないスピード感が要求される。 

 

 それが、ね。この本、開いてみたらそんな凝り固まりはどこ吹く風で、羊羹を切ったら中はキラキラとした世界が入っていたみたいに、昔の歌が、ほどけていって、新しく紡がれている。表面からは見えなかった思いが新しい言葉と布に表れて輝いている。

 三十一文字に、かるたの札に収まって伝えられてきた思いが、二人を通して、現代の言葉にすくい取られて、布と糸の艶めきになって自由にしている。 

 

時は解けて新しく紡がれる

 例えば、小野小町の歌。「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」

 

 花の色は、「桜の花の色」と「容色」を表すというのが決まった解説で、絶世の美女と名高い小野小町が年をとったことを掛詞を駆使してしみじみしているというような訳が定番だが、最果の訳は次のように始まる。

「桜色だったはずなのに、花びらにぴたぴたと透明の雨が落ちてははじいて次第に色あせていくのを見つめているわたしの瞳。わたしの体にも、聞こえないほどの小さなはじく音が繰り返し鳴りひびいている。(後略)」

 清川の訳にも、老けてしまったという定番の解釈ではなく、時の流れに埋もれた一人の人物を感じる。

 大昔の歌が、水気と透徹な瞳を持ってこちらに近づいてくる。 

 

 縫いとめられた歌は、こんな色の、こんな景色を見ていたのかと感じるのが楽しいし、自分の勝手な、おとなしい解釈を塗り替えてくれるのが嬉しい。

 

 はっとしたのは、「みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ」。なんとなく雅やかな和歌のリズムに騙されて、訳を読むまで力強い歌だと知らなかった。柔らかだけれど確かな運針がこちらに迫ってくる。訳文を読んで、その感覚をもう一度覚える。

 

 「有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし」はセンチメンタルな冷ややかな朝を感じていたら、真紅のレース刺繍から成る画を突きつけられて、歌の表面では取り繕われて出てこない熱い官能の記憶かなとどきどきさせられる。

 

 巻末に、歌に関する短い解説が付いているのだが、訳を読み、解説を読んで、また訳のページに戻るのも楽しい。 

 

 新しい訳は、言葉を重ねて感情を喚起する。

 

 「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」

 教室でこの歌に目を通している高校生こそ、身近にひりひりと感じているだろう集団に対するこのやるせなさには「私は私の気持ちすら、もう抱きしめることができないでいる。」との言が添えられる。

 

 「逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし」の訳は、「感情すべてがただの痛みとなる前に、どうかぼくの前から消えてくれ」と結ばれる。ああ、知っていた、この思いは千年の時を超えても私たちの前に顔を出す。

 言葉がそっと私たちに手を添えて、歌人たちの方へ優しく近づけてくれる。 

 

 二つの空

 「夜半の月かな」で終わる二首、清川はどちらも直接的な月を描いていない。

 「めぐり逢て見しやそれともわかぬ間に雲がくれにし夜半の月かな」

 「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」

 前者は「あの子」の姿が、昼も夜もない幻のような中で滲んでいる。最果も「あの子」を中心とした訳になり、二人の訳は重なり響き合っている。

 一方、後者では、一人で宇宙の遠い道のりを歩く姿の画に対し、訳文は「もう死んでしまいたいほどに月がきれいだ」で始まる。二人の解釈は近かったり、少し遠かったりで、一つの地平から、二つの空を楽しめる。 

 

 男だ女だということは溶けていく。男も女もだ。みんな、似たような寂しさを持って、みんな、自分だけの方法で寂しさに形を与えている。

 千年。千年の時を超えて、新しい姿で変わらない感情に触れる。今の時代に、この訳を出してくれてありがとう。

 私は自分の空の下、この本を片手にほろ酔いの夢を見よう。